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雇用、利子および貨幣の一般理論を読んで

ケインズという経済学者の名前は聞いたことがあった。しかし、彼の論じた経済学は知らなかったし、知ろうとも思ったことがなかった。そんな中で読んだ彼の著作「雇用、利子および貨幣の一般理論」は私にとって、難しく感じられた。特に私を苦しめたのは次々と出てくる数式である。経済学、特にマクロ経済学を学ぶ上でモデル化することは欠かせない。その意味で数学の必要性を感じた。このように苦労しながらこの著作を読んで感じたことを述べていく。

まず、ケインズが生きた時代の伝統的な理論を確認する。当時は失業者の多い時代であったが、その原因は賃金が需要と供給が等しくなるところまで下がらないことだと考えられた。賃金が低下しないのは、労働供給を独占する労働組合の力によるものだとされていた。よって、失業の解決策として賃下げが取り入れられたのである。

また、伝統的な理論では、完全雇用が前提とされていた。それは、非労働者は自発的失業もしくは一時的な摩擦的失業によって存在するというものである。これは、働きたくとも働けない人を考慮に入れられていない。この前提の過ちをケインズは指摘した。今となっては、受け入れられている非自発的失業、例えばハローワークに通う人なども、当時の経済理論では存在しないことになっていた。そのような通説に異論を唱えたのがケインズであり、彼はまず直感的に間違っていると考え、それを論理的に証明した。常識に挑む勇気が学問の進展をもたらすのだということを感じた。

彼の論じたことに関して要約しつつ感じたことを述べていきたいと思う。

まず、ケインズは、所得とは有効需要であり、有効需要とは消費需要と投資需要の合計であるとした。同時に所得は消費と貯蓄の合計に等しいから、投資と貯蓄は等しくなる、と考えた。こうして、投資需要が増えれば、所得が増える。所得が増加すれば、消費性向分だけ消費も増える。さらに消費需要が増えたことにより、また所得が増える。これはケインズの乗数理論と呼ばれるものである。

この乗数理論は、不況の時期において投資、特に政府の投資を促進した。投資は有効需要の増加に直結し、その結果、供給量、生産量は増え、雇用も増加するからである。また、この理論は社会的な不況時において貯蓄が美徳ではないことも示す。これは私にとっては驚きである。私はお金を将来に必要になる諸費用に使うため、進んで貯蓄をしたいと思っている。しかし、この行動は社会的には不況であれば悪なのである。乗数効果の分だけ社会全体の所得を減らしていることになる。これも考えてみればそうだとも思う。卑近な例でいえば、3.11の東日本大大震災がある。この甚大な被害により、消極的な経済活動が続けば、被災地を含め経済復興は思うように進まないだろう。心情としては被災者が地震に苦しむ中、自分たちがお金を浪費し、レジャーに出かけてよいのか、と考えてしまうかもしれないが、経済的に見てそれが被災地の復興にもつながるとも言えるのだ。少し、皮肉で、面白い例だと思った。

次にケインズは利子がなぜつくのかを考えた。伝統的な理論では、節欲に対する報酬と考えた。私自身も、漠然とではあるが同じように考えていた。今、使用しないと決めたお金を預け、欲を節し、銀行に資金として貸し付けることで、利子を得ていると考えていた。しかし、ケインズはタンスに現金をいれて、節欲をしても利子は得られないと主張した。そして利子は流動性に対する代価だと結論付けた。例えば、私は確定利子5パーセントの債権を買ったとする。仮に利子率が6パーセントに上昇した場合、私は5パーセントで買ったことを後悔するであろう。逆に4パーセントになった場合、私は喜ぶであろう。このように、債権を買うことによって、将来の投資・消費の機会を失うという意味で利子は流動性の代価であることを納得させられた。しかし、債権を買うという行為は実際、私にとって身近な事柄ではなく、また利子と関わりのあるところといえば、普通預金がすぐに思い浮かぶ私にとっては、想定外の理論であった。言われてみればタンスの例は節約が利子をもたらすことを否定できることは理解できる。漠然と考えていた利子の原因を論理的に言い当てれば流動性の代価と言えるのかなと思った。

また、利子率のとらえ方について、伝統的理論は将来の利子が予測できているという前提にたった。正確に言えば、予測できると思っていたわけではなく、仮定していたものが結果として完全に予測可能とする前提だったのであるが。一方、ケインズは将来の利子は正確に予測することは不可能であると考えた。そのうえで貨幣の役割は2つあると説いた。1つ目は交換の仲立ち。もう一つは富の貯蔵手段であり、これがケインズの新たな主張である。この理由は前段の、利子は流動性の代価であるという結論からである。蓄えられたものの価値が変化するとケインズは考えた。ケインズ的思考によると、一見増え続けているように見える定期預金の利子は、ともすれば別の投資を行った場合に得られる便益を下回っているかもしれないと考えるのである。ここでは投資家のことを考えると納得できた。彼らは手元にある自由に使える貨幣をどこに、そしていつ使うかに頭を使い、実際に投資をすることによって富を増やしている。投資先が決まっていれば、いつ投資してもよいということはない。それはある意味で将来、富を増やすための貯蔵でもあるともいえると思った。

また、ケインズの時代にはイギリスで失業者があふれていた。そのためにいかに雇用を増やすかは大きな問題であった。ケインズは雇用量を増やすための政策を主に3つを挙げている。1つ目は消費性向を高めること、つまり貯蓄意欲をそぐことである。このために租税政策を行う。具体的に言えば、豊かな人に対し、累進課税制度を用いて租税を重くし、貧しい人に対して社会保障その他で与える。このことにより、社会全体としての貯蓄性向は小さくなる。なぜならば、一般的に豊かな人の貯蓄傾向は大きく、貧しい人のそれは小さいので、この租税制度によってその差を埋めてやることができ全体として消費性向は高まる。

2つ目は利子率を下げて民間投資を増やすことである。ケインズは新しい投資について企業家が予想した利潤率、つまり資本の限界効率が利子率を上回れば投資をすると考えた。この観点から不況の際、政府のなすべきことは利子率の引き下げであるとした。このことにより投資の増加が起こり、生産量、ひいては雇用の増加が起こると考えた。ケインズはこれを最も重視した。なぜならば、これが不況時に悪となる貨幣愛を取り除く直接的手段であるからだ。

しかし、利子率を下げることにも限度がある。そこで考え出されたのが、3つ目、政府投資を増やすことである。有効需要を増やすには、民間投資だけでなく公的な投資も有効である、とした。これは1929年の世界恐慌時にイギリス政府がとった支出減少の政策と反対である。利子率を下げること、公共投資を増やすことは今もなお、不況脱出の手段として用いられているように思われる。この意味でケインズの経済学は今も通ずるところはあると思う。

また、ケインズは自身の戦争観についても述べている。戦争とは国家間で行われるものであり、国家間の経済活動といえば貿易である。この貿易の中で輸出をする国は、生産物あるいはサービスを他国から需要されており、有効需要は増加する。これによって生産量は増加し、所得も増加する。さらに乗数効果により、所得は増える。このように貿易黒字の国は富んでゆくことになる。だが、一方で1つの国が貿易黒字であれば貿易で赤字を生んでいる国もある。この場合、赤字の分だけ有効需要が減り、雇用量の減少、つまり失業は増加する。このように、貿易により富める国と貧しい国がうまれ、これが戦争の起こる一因ではないのかと彼は考えた。経済だけでなく、格差、というものが戦争をうんでいることは確かであると思う。私は富める国とそうでない国が戦争をしても勝敗はする前から明らかではないかとも思った。

戦争の原因を貿易に求めたケインズであったが、彼は平和主義者であったのだろうか。どうやらそうではなさそうというのが私の見解である。第一世界大戦時も財政的な面で政府を援助したようである。また、彼は実質賃金を下げるためには賃下げよりもインフレーションのほうが効果的であると主張した。これは、労働者は賃下げには敏感に抵抗を示す一方、物価上昇による実質賃金の低下にはそれほど強く反応しないからである。これは企業家的目線、利益を追求したものであり、民衆の利益ではない。

また、この本を読んで、なぜ今、経済復興のために自粛ムードを避けたほうがいいと言っているか論理的にわかってよかった。不況、今回の大震災のように経済的な打撃を受け、復興が求められている今、経済活動を活発化するには我々の消費もそうだが、政府も有効需要を効果的に増やす政府支出をつくるべきだと思った。それが何なのか、具体的に考え自分なりに創意することもニュースを見る中で考えていきたい。やはり生きた学問であるためには、常に現実に結び付ける必要があると思う。

冒頭に述べたように、このような経済学の専門書を読んだのは初めてのことであった。残念ではあるがおそらく今も、ケインズを理解できたとはとても言い難い。しかし、理解でき今までなかった考えを得られたときは快感を覚えた。しかし、そういった快感を覚えるために経済学を学んでいるとは思えない。経済学にはまれるほど私が学問していないせいもあるかもしれないが。

そこで思うのは、ケインズは何のために正確な経済理論の構築を試みたのか、ということだ。彼は政府の政策に介入し、自身の意見を国策に反映することに成功した。しかし、その結果は戦争から利益を得、戦争を助長したのではないだろうか。

何のために経済学を学んでいるのだろうか、という問いは私自身よく考えるものである。結局のところ、まずは学んでみるしかないだろうと思い、経済学の授業もとっているし、IPも続けている。民衆の幸福のため、大学に行けなかった人たちのため、学ぶ、というのは何度も聞いてきたし頭ではそうすべきだと思っている。本気で心の底からそう思えているかといわれると、なかなか難しい。ただ、自分の利益だけのために学び、それを使ったところに幸福はないと思う。また、実際、今、学んでいることがどのように私と人々を幸福にするのかははっきりしない。それでいても学ばないでいては何も変えることはできない。やはり学ぶことは必要なのだと思う。