創価なう

仏教オタクが仏教を語ります

え?仏って奈良の大仏でしょ?違います

仏って奈良の大仏? 違います。

大事な所は赤字具体例は緑字です。)

「おい、大野 仏だと?奈良の大仏のことか? 私の頭はぶつぶつじゃないし 体も金属で出来てないし それよりまずあんなにでかくもないわい」 と思われる方も多いと思います。

仏とは何か。 結論から言いますと 仏とは生命です。

「お〜、いきなりぶっこんできたな大野。 お前は何を言い出すんだ、突然。」

あ、すいません。 あ、でも「仏とは生命」 というのは私が発見したのではないです。

「え、じゃあ誰やねん」

戸田城聖先生という方です。 戸田先生に関しては戸田城聖―偉大なる師弟の道が分かりやすいです。

仏とは生命。

仏とは奈良の大仏 ではなく 仏とは生命なんだと。

「おいおい、大野。 生命ってことは私も生きているから 仏ってことか?」

そうですね、そうなりうります。

まず 仏とは生命であるという結論を 提示します。

と、ある 生命の状態を 仏、仏界といいます。

あなたは今どんな気持ちですか? イライラしている ワクワクしている 色々ありますね。

生命の状態を十種類にわけたものを 十界と言います。

仏というのは十界のうちの 仏界という生命状態の事です。

仏になれる、というのは この仏界という生命状態である事です。

仏界というのはどういう生命状態なんでしょうか? どんな時も幸せな生命状態のことです。

腹がたっても愉快に腹が立つ。 幸せな生命境涯です。 誰しもそうなりたいものです。

で、大事なのはですね 仏界を含め十界というのは 一瞬一瞬移り変わってます。

そりゃそうですよね。 人間腹が立つ時もあれば 楽しい時もある。 悲しい時もあれば 喜びに溢れている時もある。

このように十界はころころ変わる。 この事を 十界互具と言います。

元々は 十界というのはばらばらですよって説かれてました。

いつも凹んでばっかりの 地獄界くんがいるとします。

あ、地獄界というのは 十界のうちの一つです。 文字通り地獄な感じの生命境涯です笑

こんなやつはいつまでたってもハッピーになれない。

元々は 十界というのはばらばらですよって説かれてた っていうのはそういう事です。

元々っていうのは 具体的に言いますと 法華経以前の爾前経ではということです。

釈尊さんって知ってますか? 仏法の始まりの人です。

釈尊さんは たくさん説法しています。 なので多くの経典があります。

中でも法華経っていうのは 釈尊さんが説いたものの中で 最も大切な経典のことです。

爾前経というのは 法華経以外の経典の事です。

法華経以前の爾前経では 生命の境涯は固定的だと 説かれてました。

今世はずっと人界です。 みたいに。

これじゃ困ります。 この世でみんな幸せになりたいのに 「いやーこの世では無理です。 来世で頑張ってください」 みたいに言われてる感じがします笑

いやいや死んだことのことなんか分からないし 生きているうちに幸せになりたいです。

それを可能にしたのが法華経です。 法華経には万人成仏が説かれています。

要は全員が仏になれる 仏界という仏の境涯をあらわす事が出来る ということです。

でも法華経では今の世の中に人たちは救えないんです。 今は末法という時代です。

末法というのは 釈尊の滅後2000年以降のことです。 大体11世紀以降ですね。 よって今も末法です。

末法という文字通り 大変な時代です。

釈尊の仏法が力を失う時代です。 末法以前は 釈尊さんの仏法で何とかなってました。

でも末法になっちゃうと 法華経では人々は救えないのです。

そこに日蓮大聖人が登場するわけです。

日蓮大聖人というのは 末法の御本仏のことです。 13世紀の人です。

具体的に言えば 末法の衆生は 南無妙法蓮華経の唱題を唱え それを人にも伝えていくことで 幸せになれる! と宣言されそれを怒濤の如く実践されました。

日蓮大聖人の生きた時代 すなはち末法の初めは やばい時代でした。

「なんだそれ、どんな時代だ大野、 もっと分かりやすく説明しろ」 そこで日蓮大聖人の時代描写を引用したいと思います。

「旅客来りて嘆いて曰く近年より近日に至るまで天変地夭・飢饉疫癘・遍く天下に満ち広く地上に迸る牛馬巷に斃れ骸骨路に充てり死を招くの輩既に大半に超え悲まざるの族敢て一人も無し」(立正安国論創価学会版御書17ページ)

「おい、大野次は、古文出してきやがったな。 古文は苦手だって言っただろう。今は平成なんだから 現代語で説明しろ」

はい、説明します。

天変地異が起きるわ、具体的に言えば地震とかですね。 飢饉や疫病はめっちゃ流行っているわ。 そんな感じです。

で、地上には牛や馬が死にまくっていて 人の死骸もめっちゃありますと。

悲しんでいない人は一人もいませんと。 みんな悲しんでいますと。

立正安国論に関しては 池田大作全集 第25巻立正安国論(上)が分かりやすいです。

で、そんな時代を何とかしよう!!!と されたのが 日蓮大聖人です。

日蓮大聖人もまた 法華経に説かれているように みーんな仏になれるんですよ。って言われてるわけです。 つまり十界は互具していますよと言われています。

十界互具を 日蓮大聖人はどう説かれているか。 を見ていきます。

観心本尊抄という御書が分かりやすいので 引用します。

「今数ば他面を見るに但人界に限つて余界を見ず自面も亦復是くの如し如何が信心を立てんや、答う数ば他面を見るに或時は喜び或時は瞋り或時は平に或時は貪り現じ或時は癡現じ或時は諂曲なり、瞋るは地獄・貪るは餓鬼・癡は畜生・諂曲なるは修羅・喜ぶは天・平かなるは人なり」(御書p241)

人を見れば 喜んでいる時もあるし いかっているときもあるし 普通な時もあるし 飢えているときもあるし おろかなときもあるし 諂曲なときもありますよと。

同じ人でもこんな感じで色んな状態がありますよと 説明してくれています。

つまりこれらは六道と呼ばれる 6つの生命境涯が私達みんなに備わっている つまり互具していることを示しています。

で、次

「他面の色法に於ては六道共に之れ有り四聖は冥伏して現われざれども委細に之を尋ねば之れ有る可し。」

まあ六道があることは分かりましたよと。 で、四聖という4つの生命境涯は 冥伏、つまりまあよくは見えないけれども よーく見てみれば備わっているんですよ。

「問うて曰く六道に於て分明ならずと雖も粗之を聞くに之を備うるに似たり」

まあある程度は六道が備わっているということは 納得しましたよって感じの質問者の反応ですね。

「四聖は全く見えざるは如何」

なんで四聖は全く目には見えないんやって聞いてます。

「答えて曰く前には人界の六道之を疑う、然りと雖も強いて之を言つて相似の言を出だせしなり四聖も又爾る可きか試みに道理を添加して万か一之を宣べん、所以に世間の無常は眼前に有り豈人界に二乗界無からんや、無顧の悪人も猶妻子を慈愛す菩薩界の一分なり」

答えます。 いやいやあなたちょっと前まで六道があることを疑ってたでしょと。 まあでも例をあげていくなかで納得できたでしょっと。 同じように例を示して四聖もあることを示していきますよっと。言ってます。

世間は常に移り変わってますよね。 で、その変化にあなた気付いてますよね。 それが二乗界、つまり声聞、縁覚界が備わっている証拠ですよ。 と言ってます。

二乗っていうのは まあちょびっと悟った人の生命境涯です。

あー、世の中って無常なんだーって悟ってる生命状態ッて感じです。

で、次。 人を顧みることのない悪人であっても 自分の妻や子供は愛するでしょっと。

ほら見てみ これは誰にでも菩薩界を持っとる証拠やないかいと。

「但仏界計り現じ難し九界を具するを以て強いて之を信じ疑惑せしむること勿れ」

ここが大聖人の正直だなーって思うとこなんですよね笑 でもね、仏界はこんな感じで日常生活には現れ難いんだよって言っちゃってます。

法華経の文に人界を説いて云く「衆生をして仏知見を開かしめんと欲す」涅槃経に云く「大乗を学する者は肉眼有りと雖も名けて仏眼と為す」等云云、末代の凡夫出生して法華経を信ずるは人界に仏界を具足する故なり。」

次に法華経・涅槃経を引いて仏界が備わっていることを示してくれています。

法華経には衆生、すなはち我々人間に仏の知見を開かせるために諸仏はこの世に現れているんだと。 てことは私達に仏界が備わっているってことですよね。 備わってなかったら諸仏がどんなに頑張っても私達は仏になれませんから笑

涅槃経にもまあ同じような例えがありますよって感じです。 涅槃経からも私達に仏界が備わっているという証拠が書かれていますよって感じです。

で、最期が確信です。 末代に生まれた我々凡夫が、人間として生まれてきて そして法華経を信じている。

これこそ人界に仏界が備わっている証拠ではないか。 というわけです。

ふー。 長かったですね。 こんな感じです。

大聖人の十界互具の説明は。

何とかして例えを使いつつ 十界互具を示してくれてるわけです。

ポイントは 九界に仏界が互具してるということです。

みーんな仏界あるんだよってことです。 まあなんてポジティブな教えなんでしょう。

いやー、私はまじくそったれなんですよ。 って思っているあなた。

いやー、実はですね 仏界も備えているんですよ。 仏になれるんですよ。

そんな感じです。

根本は御本尊様への南無妙法蓮華経の唱題行ですね。 そして、自行化他に渡る実践ですね。 南無妙法蓮華経を自分も人も唱えていく。 そのたゆまぬ実践の中に仏の境涯が開かれます。

簡単にいえば 創価学会の活動をしっかり頑張るってことですね。 信行学を。

長文、お読み頂きありがとうございました。

以下、参考文献2冊を示しておきます。

日蓮大聖人御書十大部講義〈第4巻〉如来滅後五五百歳始観心本尊抄 (1955年)