創価なう

仏教オタクが仏教を語ります

苦しんでる人なんかどうでも良い!同苦出来る自分になるには

依正不二とは依報(周りの環境)と正報(自分自身)が一体不二であることを示した原理です。

自分自身と周りの環境が繋がっているということです。 一見するとそう思えない時もあるかもしれません。

例えば苦しんでいる人が目の前にいます。 自分自身はすごく楽しくて幸せです。 なぜ苦しんでいるのか全く理解できません。

自分さえ良ければよいという発想に陥ることも可能でしょう。 ただ、本当に苦しそうにしていると、何かしなきゃなんないのかなーと思えたりもします。 心の底から自分は幸せだと言えない気もしてきます。

目の前にいると分かりやすいですね。 さすがに死にそうになっている人を目の前にして 「どうでもいいや、自分は幸せだし」なんていうことは難しいでしょう。

これが遥か遠く離れたパレスチナにいる人だとどうでしょう。 めちゃくちゃ苦しんでいます。 戦争や食糧難などです。

「どうでもいいや、そんなの。」と思うことも可能です。 遠く離れた所で苦しむ人に思いを馳せることは容易では無いです。 それでも遠く離れた人と自分というのは実は繋がっているのです。

日蓮大聖人は御義口伝758pで 「日蓮が云く一切衆生の異の苦を受くるは悉く是れ日蓮一人の苦なるべし」 と仰せです。

一切衆生、すなわち全人類の苦しみというのは日蓮大聖人の苦しみだという事です。 他の人の苦しみというのは私の苦しみでもあるんだよと。 全人類に同苦しています。

この同苦の心を湧き出ださせてくれるのが 南無妙法蓮華経の御本尊様に向かって南無妙法蓮華経と唱題していくことです。 自然と同苦する気持ちが生まれます。

例をあげます。 とてもムカつく人がいます。 あなたのことを馬鹿にしてきた人です。

「あの、クソ野郎」とありのままの気持ちで唱題をします。 そしたらムカつくことをしてしまうあの人は可哀想な人だなと思えるようになります。 なんで、そんな人を不快にさせるような事をしてしまうんだろうと。

しまいには何とかしたい、そんなことをしてしまう人を救いたいと思い始めます。 不思議です。 御本尊様への唱題行はすごいです。

日々の唱題を通して、日蓮大聖人と同じ様に同苦の心を涌現させていきたいものです。