創価なう

仏教オタクが仏教を語ります

人って死んだらどうなる?戦後の価値観の崩壊。


折伏教典 (1958年)

草創期の学会を知っていますか??

戸田城聖先生が出獄されてすぐの時代です。 第二次世界大戦が終わってすぐの話ですね。 1945年〜です。

平成生まれの人からしたら 全く知らないという時代の事かもしれません。 教科書で学んだなー程度の。

悲惨な時代だったわけです。 正しい事だと言われていた戦争。 それが1945年8月15日を境に 「あれは間違いだった」となった時代です。

何を信じて良いのか分かりません。 そういった時代だったのだと推測します。 価値観の崩壊です。

何を信じて良いのか分からない という思いほど 人間を弱くするものはないでしょう。

そして敗戦のショック。 勝てると信じて戦い抜いたあげく 負けましたという天皇の宣言。

どうなることやら という不安でいっぱいの時代だったと思います。 何より何が正しいのか分からない。 そんな時代ではなかったかと推測します。

そこに戸田城聖先生が 一人立つわけです。

敗戦に苦しむ 一切衆生を救うのだと。 その道は宗教革命にあるのだと。

怒濤の快進撃をされるわけです。 獄中で亡くなられた 牧口常三郎先生の正義を証明するために。

牧口常三郎先生とは 創価学会を作られた人です。 初代会長です。

牧口先生は 戦時中、牢獄に入っておられました。

そしてそのまま 牢獄の中で亡くなります。

その牧口先生の正義を 断じて宣揚するのだと戦われたのが 戸田先生です。

峻厳な師弟の道がここにあると思います。 師匠を牢獄で亡くなる。 同じく牢獄にいる自分。

必ず牧口先生の正しさを証明してみせる。 この一心で戸田先生は戦われたのだと思います。 深い使命感です。

この本を読んだら 戦後間もない 草創の時代の雰囲気が伝わってきます。

どういう感じかといいますと

折伏!!! って感じやったんやなーって。 強烈な時代やったんやなーって。

それだけ大変な時代やったんやって。 まじ一日生きることに精一杯な時代やったんやって。 貧乏人と病人の集まり。 と言われるような感じやったんやって。

だからこそ、仏法を渇望する人が いまくった時代やったんやって。

生きることにやっとの時代です。 アメリカの占領下にあり 貧困や病気に苦しむ人々。

さて、今日をどうやって生きよう そういう時代です。

だからこそ 今すぐに現状を何とかしたかった。

わらにもすがる思いの人々がたくさんいたのだろうと思います。

そういう人々が 賢明に信仰をし 自らの生活で仏法の偉大さを証明しました。

その人達の頑張りのおかげで 今の学会があります。

まじありがとうございます。

ただ、 ちょっと古いです。 戦後まもない時代ですからね。

四箇格言 日蓮正宗 などに関する記述は 最近では改められている部分もあります そこは要注意

四箇格言は最近はそんなに言われませんね。

日蓮正宗との関係は大きく変わっていますね。

この本で 特筆すべきは生命論。

生命って何やねんっていう話。

人が必ず経験すること。

何でしょう???

それは 死ぬこと。

死ぬことだけなんです。 確実なことって。

それ以外は分からないです。 明日が来るかどうかも分からないです。

だからこそ 「死ぬ」とは何なのかってことは よくよく考えたいものです。

死んだらどうなるのかということ。

そして 死んだらどうなるねんっていうのは みんなの疑問(なはず)

大聖人も まずは臨終のことを勉強せーって 言われてます。

なぜ死んだらどうなるのか考えることが重要なのでしょうか?

例をあげて考えてみましょう。

ここに1人の大学生がいます。 大学を卒業した後は、歌手になりたいと思っています。

要は大学の後にしたいことが歌手になること。 なわけです。

それがあるから 大学時代は歌手になるための訓練をするわけです。

バンド組んだり 楽譜書いたり とかですかね。

大学の後の事が決まってるから 大学の間の事を生き方を明確に決められるってことです。

死も同じ。 死んだ後の事が分かってたら 生きてる時にどうしたいのかってことも 見えてくると。

単純な言い方をすると 死んだ後に生命は続くのかそれとも何もなしに終わりなのか 2つに1つです。 どちらかです。

どちらが正しいのか科学的に証明する方法は 多分ないだろうなーと思います。

科学的にというのは客観的にという意味です。 誰しもがそうだねーって言えるってことです。

まあこの定義も曖昧ですが笑

なぜ科学的に証明する方法はないのか。 それは、死んだ人は喋れないからです。

当たり前過ぎますが笑 死んだ人が喋れたら 「ああ、死んだ後はこういう風になるんだよ〜」って 教えてくれることも可能なんでしょうがね〜笑

それは無理でしょう。

近そうな例として思い当たるのは 臨死体験ですかね。

自分を客観視している自分を 見た。みたいな感じです。

詳しい話は分かりませんが笑

まあ死んだ人は喋れません。 だから死んだ後どうなるのかということを 科学的に証明する方法はないでしょう。

とか言いながらあるとすればとまた言いますけど アプローチとしては 前世の記憶とかですかね。

これは何か研究であるみたいですね。 あああ、言っていたら気味が悪くなってきたのでやめます笑

興味ある方は研究してみてください。

まあ死んだ人は喋れません。 だから科学的に死後を証明することは 不可能です。

だからこそ 死んだらどうなるかは 主観的に判断する他ないわけです。

自分は死んだ後こうなると思うと 信じて生きるほかないわけです。

以下は私が信じている事を書きます。 私は死んだ後こうなると信じて生きている という話です。

生命は永遠だと信じてます。 永遠なんす。

死んで、また生まれてくるんです。 死後にも生命はあるということです。 ずっと続いてると。

生命は永遠? 何を言ってるんだ? そう思われる方もいらっしゃるかもしれません。

そもそも生命が永遠って どういうこと?と思われるかもいるかもしれません。

生命は永遠ということを 分かりやすく説明するために 例を出してみましょう。

例えれば、海。 海を全宇宙とする。

海には波がある。 波ができる度にその先っちょから ちゃぽんと小さな水しぶきが出来る。 その水しぶきは波から独立してる。 これが「生」ということ。 その水しぶきが私達一人ひとりの生命。

分かりやすくするために この水しぶきに名前をつけよう。 「大野翔一」って笑

で、その水しぶきは少しの間 独立してて でまた、海に溶け込んでく。 これが「死」

その水しぶきは海に溶け込んでる。 でも、その水しぶきを形成してた水は厳然と 海の中にある。 言い換えれば厳然と 「大野翔一」は海の中にある。 「大野翔一」は死んでもちゃんと大宇宙の中にある。 で、また生まれてくる。 ちゃぽんって水しぶきをあげながら。 「大野翔一」はまた生まれてくる。

絵で書くと分かりやすいんだけどな〜笑 絵は下手なもんで笑

お分かり頂けたでしょうか???

何回、水しぶきって言うねん ってかんじですが。

まあ要は 生命は永遠って事です。

だから、この世で良いことをする。 そしたら幸せになる。 この世でも、来世でも。

そういう感じ。 だと解釈している。

ふむふむ。

折伏教典はそういうことが ガツンと書かれてます。

創価学会の宗教の全てがガツンと。

長文お読み頂きありがとうございました。


折伏教典 (1958年)